「日本限定25本”マスターリザーブドマルシェ”」 2020年1月14日
2020-01-14 11:00
こんにちは、銀座エバンスの稲田です。
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
さて、本日はジャガールクルトから”マスターリザーブドマルシェ”のご紹介です。
はじめに
私は2017年の夏、一度だけブログでジャガールクルトの記事を書きました。三年経った今なお、ルクルトで言うところの”ミニマル”な美しさに魅了され続けており、もう一度、みなさまにこの素晴らしいブランドについてお話したくて今回のモデルを選びました。
お時間のございます時に合わせてご覧いただけると幸いです。・・・「ミニマリズムな洗練美 “ジャガールクルト マスター・トゥールビヨン・デュアルタイム” 」(※このモデルは完売しております。)
ジュウ渓谷
ジュウ渓谷。今回お話するジャガールクルトだけでなく、オーデマピゲ、ブランパン、独立時計師であるローマン・ゴティエ。数々の素晴らしい時計師たちを生んだこの場所は、正式には”ヴァレ・ドゥ・ジュー Lake Geneva Region”と呼ばれ、フランス国境のジュラ山脈の南端に位置します。
山や湖、森の木々に囲まれた美しい谷は、冬には大雪で外界との道が閉ざされ、そこに住む人々は家の中で仕事をするしか方法がなく、彼らは気の遠くなるような作業を要する時計の小さな部品を長く厳しい冬の間中、楽しんで製作していたのです。
ピエール・ルクルトとは
何世紀もの間、代々受け継がれてきた伝統は、個々に才能を磨いていつしかコンプリケーションまでも手掛ける時計師が誕生しました。彼らはよく私がブログで使う用語、”エボーシュ”を製作して各メーカーへ供給、ジュウ渓谷で育った時計師の力なくては、スイス時計産業のこれほどまでの発展はなかったと言っても過言ではありません。
その天才時計師たちを生んだこの地に、16世紀に初めて足を踏み入れたルクルト家の”ピエール・ルクルト”。
ピエール氏は宗教的追放から逃れて少数のユグノー(プロテスタント)と共にジュウ渓谷に拠点を置きます。
1833年、ルクルト家の末裔アントワーヌ・ルクルトが、ジャガールクルトの最初のアトリエを立ち上げたのですが、ピエール氏の英断、ジュウ渓谷に拠点を置いたことが現在のジャガールクルトというメゾンの大きな発展に繋がります。ジュウ渓谷の類稀なる美しい景色に着想を得て、ルクルトの数々の素晴らしいタイムピースは生まれて来たのですから。
エドモンド・ジャガーとの出会い
1866年には、アントワーヌ・ルクルトの息子であるエリー・ルクルトの功績により、様々な時計製造技術をもつ時計師たちがジュウ渓谷に集まるようになりました。この体制が、同社のマニュファクチュールの礎となったのです。
そして、1903年。運命の出会いが訪れます。アントワーヌ氏の孫、ジャック=ダヴィド・ルクルトは、当時クロノメーターのスペシャリストであった”エドモンド・ジャガー”と出会い、ウルトラスリムの開発に熱心だったジャガー氏から世界最薄キャリバーの製作を依頼されます。そして、この依頼を見事成功させたルクルト社(LeCoultre & Cie) は、ジャガー氏と事業提携を結んだのです。
ジャガー・ルクルト
しかし、1903年にすぐに社名が変わったわけではなく、我々のよく知る”JAEGER-LECOULTRE ジャガールクルト”になったのは1937年のことです。
では、その間何があったのでしょう。知る人ぞ知る逸話なのですが、実は15年もの間、上記でお伝えした世界最薄キャリバー”ルクルトCal.145”をジャガー氏がカルティエと契約をし、独占供給していたのです。しかしこのことがきっかけとなり、ルクルト社(LeCoultre & Cie)は更に名声を得て、ジャガー氏はパートナーとなることを決意、我々はジャガールクルトと一括りにしていましたが、正式なブランド名称は”ジャガー・ルクルト”だったんですね。
ジャガー・ルクルトとカルティエ
ルクルト社はこれまでいろいろなブランドにムーブメントを供給していましたが、一番の功績はカルティエ社との関係です。そして現在、カルティエ率いるリシュモングループ傘下にジャガー・ルクルトは収まっています。これも運命なのかもしれませんね。
というのも、同社は1970年代後半には自動車の計器製造で有名なドイツのVDO社(2007年からタイヤで有名なコンチネンタル社の傘下にあります)の傘下に加わり、1991年にLMHグループ(後程詳しくお話します)、そして、2000年にリシュモングループへ。これらの経緯(いきさつ)には、私の去年のリシャールミルブログ 「RM030”デクラッチャブル・ローター”巻上げ過ぎない時計」で少しだけご紹介したある人物がまさか関わっていたのです。
その方の名は・・・
(次のチャプターへ)
ギュンター・ブリュームライン①
時計業界に関わるすべてのみなさまが、ご存知の名ではないのは理解しています。私自身、いろいろなブランドのブログに携わっていなければ、この方のことをここまで詳しく知ることはなかったと思います。彼は、我々のよく知る”ニコラス・G・ハイエック”氏と比肩する、凄い人物なんです。
ギュンター・ブリュームライン氏のお話なくては、今回ご紹介するジャガー・ルクルト、もちろんリシュモングループのことも語れません。そして実は、2016年のランゲブログでも、この方の名を出しているのですが、同氏の一番大きな偉業は、ランゲ&ゾーネの復興であることを先にお伝えしておきます。 (上写真左。右はウォルター・ランゲ氏)
ギュンター・ブリュームライン②
ブリュームライン氏は1980年、ドイツの”ユンハンス”の品質管理責任者に就任した翌年、前述したVDO社の傘下にあった”IWC”のコンサルタントとなり、そして1984年。今回お話するジャガー・ルクルトのアドバイザーも兼任するようになりました。氏はIWCでは今や伝説となった”ポルシェデザイン” (一昨年の私のブログで詳しくお話しています・・・「幻の傑作ダイバーズウォッチ ”GSTディープワン”」お時間のございます時に合わせてお読みください。)とのコラボモデルを発表、そして今となっては本当に名残惜しいモデル、あったら即買いをオススメしたいモデル「ダヴィンチ」を発表し、時計業界に大きな驚嘆を与えます。
そして、その頃下火だったジャガー・ルクルトは、同社の顔である「レベルソ」を再燃させるべく、いろいろな種類のレベルソを製作、同時に複雑時計の製作にも力を入れます。厳しいコストカッターであったブリュームライン氏は、求めやすい価格設定も戦略とし、それぞれのブランドを象徴するモデルを定めます。
LMHグループ
そして1990年、ウォルター・ランゲと共にランゲ&ゾーネを復興。前述した”LMHグループ ”は、ブリュームライン氏が率いていたIWC、ジャガー・ルクルト、ランゲ&ゾーネの会社だったのです。その後、氏の手腕を高く評価していたリシュモングループが、LMHグループを買収したというわけなんです。
ギュンター・ブリュームラインという人物がいなかったら、歴史ある素晴らしいこれらのメゾンは衰退していたでしょうし、現在もなお快進撃続きのリシュモングループはないと言っても過言ではありません。2001年、急逝してしまったこの偉大な人物のことをみなさまに覚えて欲しい、忘れないでいて欲しいと心より願っております。
ミニマリズムとは
ミニマリズムとは、過度な装飾はせず、必要最小限まで省略した表現のことです。元々は1960年代半ばから、アメリカを中心に広まったアートを表現する用語で、だまし絵的な技法を用いず、統一的な処理を施した作品の総称です。
今回ご紹介するマスターリザーブドマルシェをご覧いただくとわかるのですが、極めてシンプルな文字盤に、控えめでエレガント。洗練された美しさを持つこのコレクションはマスターコントロールの他、マスターウルトラスリム、マスターグランドトラディションの三種類あり、どれもが丸型でクラシカルなディテールは同じです。ミニマリズムな洗練美をもつコレクション、それがマスターコレクションなのです。
おわりに
いかがでしたでしょうか。
今回は、ジャガー・ルクルトの歴史、これまで辿って来た道、メゾンにとっての重要人物についてスポットを当ててお話をしました。
1992年に誕生したマスターコントロールは、初の1000時間コントロールテスト対象モデルでした。1000時間とは41日と6時間のこと、どのブランドもおよそ15日間を基準としている中、まさかの約三倍もの期間を設けてテストを行っています。1994年にマスターウルトラスリム 、2004年にマスターグランドトラディションを発表、現在ではクロノグラフからトゥールビヨンまで幅広いバリエーションのモデルを展開している主力モデルです。
今回ご紹介したマスターコレクションのリザーブドマルシェは、日本限定25本、ここエバンスでしかお目にかかれない稀少なモデルです。
ピンクゴールドとグレーの文字盤の相性が素晴らしく、少し丸みを帯びた文字盤を横から見るとブラウンやブラックに見えて本当に美しい仕上げになっています。是非、お手に取ってご覧いただきたいです。
気になられた方は是非、私までお問合せ下さい。
みなさまのご来店、心よりお待ち申し上げております。
JAEGER-LECOULTRE ジャガールクルト マスター リザーブ ド マルシェ 日本限定25本(USED) 140.240.937B